わたしたちは何と闘うべきなのか〜D.チェリーの記憶

前回の投稿より、しばらく時間が経ってしまいました。世の中は目まぐるしく、明らかに情報過多で、腰を据える、地に足をつける、そんな所作を伴った言説を立てることが、このうえもなく難しい、そのような時代にわたしたちは生きているようです。

コロナ禍(それが真に「わざわい」なのかはさておき)への政治の無残な対応は目を覆うばかり。まったく期待が持てない。日本列島には自己責任論が跋扈しているのです。罹ったら罹った人の責任。身の回りの病院と保健所と自治体で何とかしてね、という訳です。ただの風邪なんだから、国がタッチする話ではないですよ、と、ほとんどこんな調子です。

政府は、そんなことよりも、経済を回すことを優先させるべきだと言います。それはしかし、オリンピックを開催することで電通のような企業が潤うという構図に象徴されるような、こざかしい、利権の仕組みに過ぎないし、まさに利権でしかないことが報道されてもいます。権力は腐敗すると人は書いたけれど、ここまで腐臭を漂わせる政権が過去にあったでしょうか。

隣の香港では周庭氏が逮捕との報道。権力に異議を唱える声が、強大な国家によっていとも簡単に押し潰される。一方で、何の罪もない一人の人間が、肌が黒いという理由だけで殺されてしまうような国がある。トランプ大統領がマジで怯んだ、とも言われるBLM(Black lives matter = 黒人の命を軽くみるな→ P.バラカン氏がこのように訳しているらしい)にまつわる一連の事件は、人種差別の問題が何一つ変わっていないアメリカの現実を露呈する。

いわゆる「先進国」と名指される国家の現実は、こんなものです。あるいは「経済大国」という語の語義は、人ひとりひとりの生など取るに足らないものだという、そんな原理、そんな哲学、そんな生政治(バイオ・ポリティクス)に由来する、としか思えない。2020年のいま、どうやら奴隷制は何千年もの間、人間社会によって温存され、これからもさらに強化されていくかのようです。思わず目を覆いたくなってしまう世の中。だがそれは、紛れもない、現実なのです。

唐突ですが、1990年代に、フリージャズ界で著名だったトランペット奏者、ドン・チェリー氏が来日した際、筆者は彼にインタビューをする機会に恵まれました。話は音楽論のみならず文化論、人生観まで。今でもそれは鮮明に甦ってくるのですが、曰く「人生は水たまりのようなものなんだ。雨が降れば水たまりができる。晴れればいつの間にか蒸発して消えてなくなる。音楽も、生命も、そんな循環なんだ」。何分の一かはネイティブ・アメリカンの血が入っているからなのか、その物言いからは自然との調和・共存など、そして行き過ぎた文明に対する批判が見てとれます。

そして、なぜそんな話になったのかかなり記憶があやふやですが、曰く「他人の悪口を言わないこと」。まるで昔の辻音楽師の説教のようでもあったけれど、当時の筆者にとって、この一言はかなりグサッと来たのでした(2,3日前、起床直後にこの声が突然聞こえたのが何故だったのかよく分からないまま、この文章を書いている。。。)。この何気ない一言、「道徳」の時間で復唱させられそうな、ありふれた一言、だがしかし、批評の原点であり、もしかすると音楽の原点でもあるような、そんな一言を、このフリージャズ界の大御所が発したことに、ある衝撃を覚えたものでした。

思えば、21世紀は悪口の時代に他ならない。憎悪表現=ヘイトスピーチが絶え間なく、そして瞬時に可視化されてしまう。そのほとんどは批評ではなく、論理を欠き、整合性を失した、気分や情緒、思い込み、誤謬や幻想に過ぎません。無意識というものがあるとすれば、それは非整合性、超論理の出来事、まるでシュルレアリストたちの芸術のような常軌を逸した世界なのかもしれない。けれど、例えばルネ・マグリットの絵画は、やはり悪口ではなく強烈な批評だった。コンセプトがあり、ユーモアさえあった。ヘイトスピーチはまた別種の無意識の表れともみえるけれど、その実質は暴力以外のなにものでもないのです。

いま、フロイトやラカンの後継者たちは、このような事態を見据えつつ、緊急に「無意識」概念の更新を迫られています。あらゆる暴力に対抗するために何をなしうるのか。この数多のむき出しの暴力の発現に、どう対処するのか。憎悪表現とは病いなのか、どうなのか。病いであるとすれば、治癒が可能なのか。そうではなく、病いではないとするならば、では何なのか。文明の必然、なのか。20世紀に行き着いたファシズムという悪夢は、なんのことはない、この文明の正夢なのでしょうか。フロイトならこの夢をどう分析したでしょうか。問題は簡単ではなさそうです。

さて、人生は水たまりなのか、どうか。(老荘なら「水になれ」と説く。まるで何者でもないかのように振る舞えと。けれど飛躍があるので、いまは立ち入りません。)人生は水たまり? 人はピンと来ないかもしれません。「成長戦略」のようなワードがいとも簡単に流通するような時代に、人生は水たまり? 果たして何のことでしょうか。それはおそらく、進歩することを是とする人生観への懐疑、もっと言えば、進歩史観に対するアンチテーゼだと思えるのです。

進歩史観の首領(ドン)の一人、19世紀初頭の哲学者・ヘーゲルは、世界史とはヨーロッパの歴史だと言い切ってみせた。文字を持たないような有色人種など論外で、中国には歴史はあるが、個人の内面が確立していない、などと非難。ほとんど紛い物の精神分析のようです。黒人に至ってはほぼ奴隷扱い。ヘーゲルの死後に刊行されたという『歴史哲学講義』は元祖ヘイトスピーチ?と、首を傾げたくなるような書物です。200年も前のことだから無理もない、と言えるのか。否、いま、世界はヘーゲルの19世紀と何が違うのか?

ヘーゲルにとって歴史とは「精神」や「理性」の産物だといいます。個人の内面の自由が確立されている、それがヨーロッパだと論じる。曰く「理性とは、まったく自由に自己を実現する思考なのです」。それが仮に本当だとして、その自己実現の行き着く先が、自由な言論、自由な憎悪表現だとしたら? そのようにして「進歩」してきたのがヨーロッパだったのだとすれば? もしかするとヘーゲルのいう「理性」に、すでに何らかの病巣が現れている、とみることができるかもしれない。

わたしたちは、いま何と闘うべきなのでしょうか。コロナウィルスでしょうか。コロナウィルスをめぐる利権なのでしょうか。決してそれだけではない。他者を見下すような謂れなき言説と、今こそ闘わなければならない。そのような悪しき理性、悪しき精神を治癒するために、わたしたちに何ができるのか。そう考えると、ふと、D.チェリーのトランペットが木霊し、アフリカのポリリズムが脈打つのです。音楽が、踊りが、いまここに伝えてくれること。差別を後ろ盾にした「歴史」とは無縁の、リズムやメロディ。誰もが罹りうるのはコロナだけではなく、差別という病いなのです。

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