宇野邦一さん×齋藤純一さんの回

思想ゼミ特別編『政治的省察–政治の根底にあるもの』出版イベント第1回目が終了しました。著者の宇野邦一さんとゲストの齋藤純一さん、また進行役=李静和さん。聴衆には専門家の方も多く、会場はやや緊張した雰囲気から始まりました。

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新刊では必ずしも触れられていませんが、ハンナ・アレントを読むようになったきっかけは市村弘正さんの『敗北の二十世紀』だったという宇野さん。アレントを比較的最近読むようになったといいます。そんな宇野さんがこの日、まずキーワードとしてあげられたのは「疎外」。マルクスが書いた最も有名な概念のひとつ、この「疎外」が政治を渦巻いているのではないか、という見方が提案されます。

それに呼応するように、マルクスの「自己疎外」を批判しながら「世界疎外」を論じたアレントを引き合いに、ナチズムやスターリニズムのような全体主義への危惧を語る齋藤さん。齋藤さんの『政治と複数性–民主的な公共性にむけて』などが話題になりながら、自己を失うのではなく、世界を失うのでもなく、自分自身の状態をプルーラル(複数性・複数的)にしておくこと、その上で自己と他者とが十全にレスポンスできるかどうか、そのようなアレントの論が丁寧に語られていきます。

『言葉と物』『監獄の誕生』『狂気の歴史』などの大著を残したフーコー最晩年の思想的テーマは「自己への配慮」。一連の『性の歴史』の構想が更新・変更され、その終章が「自己への配慮」だったのですが、残念ながら『性の歴史』そのものは未完のまま亡くなっています(昨年、遺稿が出版され話題となりました)。

フーコーのいう「自己」とは、宇野さんによれば「他者を支配しないために自己を支配する」ような自己、あるいは「いかに自己と自己関係が折り畳まれるか」(本書333p)という「自己のトポロジー」だといいます。そのような言い方がアレントの「自己」とどう異なり、どうパラレルなのか。

「哲学は単独のディスクールでしかない」と言ったアレントは、「自己」が十全なレスポンスをするような次元である「公共」へと自己論を展開したのではないか、と齋藤さん。確かに「公共」のような問題意識がフーコーにあったようには思えず、まして「福祉」や「福祉国家」のようなあり方に疑問を呈していたフーコーと、公共性を論じたアレントとは、指向性の違いは明確だったのかもしれません。

ただ「政治とは統治することでも、治安を維持することでもない。差異を競い合う複数性、それが政治だ」というアレント/齋藤さんの見方が、フーコーの「生政治」と全く異なるわけでもないはずで、それほど違わない時代を生きたアレントとフーコーという二人の思想家から引き出しうる政治論・国家論の可能性は21世紀になってもまだ失われていないように思えます。

そのほか、話題にあがった事柄はあげればきりがないので、以下に大雑把に列記します。民衆が欠けている(ドゥルーズ)・バーリンやハイエクの自由論・シュティルナーの自我と自由・公共的領域=”inbetween”・アウグスチヌスの意志・アイヒマン・れいわ=ポピュリズム?

また会場からの質問では、経済と政治の関係は?サパティスタや先住民の視点は?などなど話し出すと別日程を組まなければいけないような話題まで。ほぼ3時間にわたる対談、3時間でも足りないほどでしたが多くの皆さんがそれぞれに問題を共有しえた一夜となりました。同じ会場で行われた懇親会もほぼ3時間(!)。みなさまお疲れ様でした。次回は8/24。ゲストは社会学/障害学/生存学の立岩真也さんです。お申し込みはこちらから。

 

 

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